2016年03月

2016年03月31日

ホステスと本番風俗嬢が同じであるはずがない

北条かやさんという、自分のキャバクラ勤務体験を社会学的に供述したことで有名になった女性がネット上で批難されている。

ひとつは雨宮まみさんが作り出した「こじらせ女子」という言葉を勝手に使ったことがあるらしいが、もうひとつは飛田新地に面接に行ったことに対て「清潔だと思ってたのに残念」という意見がきて、それに対して「調査ですよー」と返したことがある。

つまりその人の「飛田新地は不潔」という意見を認めたうえで「私は調査目的で行っただけなので、汚れてません」と言ったも同然なのである。

しかも、それを批判されると「切実さをもってホステスをやった私と、飛田の女の子は本質的に同じだと思っています。」と答えている。

これは本当にそうなのだろうか?

どういう事情があったかは知らないが、大学あるいは大学院生のときに「切実さをもって」キャバクラで働いたのは、たぶんお金が必要だったのかもしれない。

その時に「割りよく稼げる仕事」として風俗も候補のうちに上がったであろう。

しかし、そこまではできないと思ってキャバクラの仕事を撰んだのではないだろうか?

「男に媚を売るのも身体を売るのも一緒」ではないから、あえてキャバクラを選んだのではないだろうか?

かやさんが「元キャバクラ嬢」であることで、もてはやされてテレビにも出られるが、これが「元飛田嬢」であったら、朝の番組に出演することができただろうか?

そもそも、風俗嬢でも本番は絶対にしないと決めている女性としても構わないと思っている女性では違うかもしれないし、毎日きちんと出勤して、できるだけお客さまを喜ばせてあげようと思っている女性と、好きなときに、お金が必要なときだけ出勤して、1、2万手にできたらいいと思っている女性とは、考え方も本質的なものも全然違う。

別に本番風俗を汚いと思われてもしょうがないけど、キャバクラで働いたことがあるから本質は同じとはまったく思えない。

本当にリスクを取りたいなら、どうぞ面接に行って働いてみてください、と言いたいところだけど、もうすでに、組合から「この女性に注意」というビラが回ってそうだし、他の女性の売上を損ねることはしないでいただきたい。

そうそう、取材先のリスクも考えてほしい。

femmefatalite at 05:53|PermalinkComments(1)風俗論 

2016年03月30日

どんな相手でも軽んじていい相手はいない

かなり前の話になるが、好意を持ちつつある男性と肉体関係を持ったあとで「お客でも好きな人でもなく、友達セックスをもっとしたほうがいいよ」と言われてショックだったことがある。

それは相手の男性の方は、毎日違う相手と1ヶ月ローテーションでセックスしたいと思っていて、私とも月一で会ってセックスしたいから、同じように思っていてほしいという意味だったのだから。

私も当時から今の彼と付き合っていたし(ブログでもその男性にも「彼かもしれない人」と言っていた)、別の女性と関係を持ちつつ、私とも月一で会ってくれたらいいと思っていたけど、お金が絡んできておかしくなった。

でも、彼の言ったことを好意的に受けとる、というか、友達セックスのどこがいいかを考えてみたら「相手に気を使わなくて好きなことだけができるセックス」なのかもしれないと思った。

仕事はもちろん、彼と会うときも、例えば疲れていたり、ハードプレイで傷つけられていても、求められたら応じてしまうけど、もし「友達」なら、「今日は疲れているからお茶だけで!」とか「痛いから入れないで!」とか「すっごく疲れていてお腹も空いているから、ホテルでご飯食べて途中で眠ってもいい」とか、自分のしたいことやしたくないことをちゃんと伝えて、仕事が入ったら途中で中断してひとりだけホテルを出てしまう、なんてこともできるだろう。

と想像してみて、いや、それはいくら好きではない人でもそんな失礼なことはできない、と私は思った。

そんなことをしても、全然楽しくない。むしろ、相手への申し訳なさでいっぱいになってしまうだろう。

仕事の相手だろうが、好きな人だろうが、ただの友達だろうが、一緒にいるのなら、その人ができるだけ快適な気持ちで過ごせるように努めたいと私は思う。

あぁ、でもあの人は、私が失礼すぎてできないと思うことも「愛する価値もお金を出す価値もない」という理由でしてしまえるのだろうなと、彼の都合に振り回されたデートを思い出した。

まぁ、反面教師と思っておこう。






2016年03月29日

彼の表情

昨日少しだけ彼と会った。

お互いに時間がなかったので、難波の喫茶店で少しだけ。

おとといの夜、彼に対しての不満をぶちまけてしまって祖のまま別れてしまうのかもしれないと思っていたが、朝、ラインがきてそこには「好きだ」と、いうことと「すまないと思っている」ということが書かれていた。

その言葉にほだされたというよりは、その言葉を真意を確かめるために会おうとしたのかもしれない。

そして、ずっと気になっていたあることを聞いた。

言葉を開く前に、斜め下に視線を落とし、目を少し開いてじっとり前を見るような表情をした。

それはひとつになり一心に腰を振るときと同じ私が大好きな表情だった。

彼が話してくれたことが本心なのか、その証拠はまったない。

違う内容のことを教えてくれた人に確かめるつもりもない。

ただ、その事実を私がどう受け取るかだけだと感じた。

気がついたことは、どんな形であれ彼と一生関わっていきたいと願っていることと、それには今のような関係がベストということだ。



femmefatalite at 06:29|PermalinkComments(0)恋愛とセックス 

2016年03月28日

幸福な王子の成れの果て

『幸福な王子』という童話がある。

たくさんの宝石や金で飾られている王子の形をした銅像が自分の国の貧しい人たちに心を痛めて、つばめに頼んで自分を飾っている宝石や金を剥がして持っていてあげているうちに、みすぼらしい姿になって捨てられてしまうという話だ。

なんだか最近、自分がこの王子像になってしまうのではないかと思うことがあった。

与えれは与えるだけ相手は図々しくなり、こちらの手持ちがなくなると冷たく捨てられる、そんな思いをさせられたことがある。

ただ私は銅像とは違い自分で金を作る能力に長けていたが、その労力を軽く考えられるもっと稼ぐように求められることもあった。

しかし、一方では私が与えたものを感謝して受け取ってくれる人もいる。

そして、それ相応の「見返り」をくれる人だ。

「見返り」を求めるのははしたない行為だと言われるかもしれないが、「無償奉仕」を一方だけするのでは相手のためにもならないと思った。

一番いいのは、同じ思いを共有してくれる人とだけ付き合うことだ。

そうでなければ、私だけどんどん消耗していって、あの王子の像のように誰にもかえりみられなくなり、廃棄されるだろう。






2016年03月27日

復活祭に思うこと

昨日、お客さまと一緒にホテルから駅に向かって歩いているときに教会の掲示板を見つけて、今日がイースターだということを知った。

十字架に掛けられて死んだイエスキリストが生き返ったと言われている日であり、キリストの死によって人間の罪が許させ永遠の命を与えられたことを意味する、クリスマスより重要な日である。

もし私が敬虔なクリスチャンであれば、金曜日の夜から日曜日まで死に対峙したキリストを苦悩に思いをはせながら身を慎み、日曜日の朝にはキリストの復活とそれが象徴する「神が私たち人間の罪を赦し永遠の命を与えたこと」に感謝をするべきであるが、もう何年も教会には行っていない。

当時から「男性会員と同等に振るまい自分の意見をはっきり言う」私は煙たがられていたが、今私がしていることが知られるとどれだけの非難が巻き起こるだろうか。

断絶されるのならまだしも「あなたのために祈ります」とか言われるのはさらに苦痛だし、自分を偽ってまで教会に行きたいとは思わないので、ひとりキリストの死と復活の意味を考え、自分がどうあるべきかを考えてみる。

キリスト教の真髄は神による赦しである。

神のいいつけに背き禁断の果実を食べてしまった人間は額に汗して(つまり苦悩して)働かなくてはならなくなり、特に男を騙して実を食べさせた女は男に従属すべき存在となり、また出産の苦しみを与えられた。

しかし、それはあくまでも、イエスキリストの復活まで、旧約聖書の時代の話である。

キリストが人間の罪を背負って死んだことでその罪は帳消しになり、永遠の命が与えられたはずである。

私たちが神に認められるのは、正しい行為をするからではなく、イエスキリストの死と復活を信じる信仰によるものである。

どんな善行を積んでも、それ自体では神に赦されることはないのである。

しかし、いくら罪が赦されるとはいえ、親の生憎甘えているばかりではならない。

その愛に報いる生き方はどんなものかを今日は少し考えてみたい。





femmefatalite at 06:15|PermalinkComments(0)宗教のこと