2022年07月17日

インベカヲリ★×大野左紀子 「芸術と犯罪と症状は似ている」を聞いて

無差別殺傷事件犯やその周辺にいる人への取材を通して犯人の動機の奥にあるものを解き明かそうとする『「死刑になりたくて、他人を殺しました」 無差別殺傷犯の論理』やエッセイ集『私の顔は誰も知らない』などの著作のあるインベカヲ リ★氏とツイッターでフォローさせていただいている文筆家、大野左紀子氏のトークショー「芸術と犯罪と症状は似ている」を聞いた。

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大きなトピックスは、前半の大野氏による男女の身体的な違いかは起こるセックスの不均衡や暴力性の話、後半の無差別殺傷犯人の背景にある母親からの影響の話があり、私にとってはセックスの不均衡さのほうが切実な話題だった。

タイトルの「芸術と犯罪と症状は似ている」に関する「鉄柱詩」の話も興味深かった。

「鉄柱詩」とはインベ氏が駅などでよく目にする、すぐに消されることも多い落書きのこと。
意味のない言葉の羅列ではあるが、同じ人が書いたと分かる特長があり、しばらく見ないときもあったが、コロナ禍でトイレットペーパーなどの買いだめが起こっているときに「新作」を見つけて、鉄柱が光を放っているような希望を感じたそうだ。
それに対し、大野氏は「多くの人が(トイレットペーパーの買いだめのような)人の欲望に自分の欲望に乗らされているときに、1人だけ孤独に自分の欲望と向かい合ってる人がいることに希望を見いだしたのでは」と指摘する。
人は情報に踊らされたり、みんなと同じことをしなければならないという思い込みから、本心では望んではないことを自分が望んでいるように感じて行動してしまうものだが、他の人のことなと気にせず、自身のしたいことを行っている人がいることにインベ氏が感激した気持ちがよく分かる。

インベ氏がそこに希望を感じたのは、インベ氏自身が他人からの評価や称賛より、自分のしたいことを実践しようとしている人だからであろう。
公共の施設に落書きすることは「軽犯罪」で、おそらく本人もそんなことはしてはならないと分かっているものの、そうしたいと願う願望の発露があり、それとアーティストが自分の思いを作品に託して世に問いたいとする願望の発露とは表れる形は違っても「症状」は似ているということだ。
私自身も他人に惑わされず、自分が本当にしたいこと淡々と行っていきたいと思っているので共感した。

次に、大野氏による男女の身体の性差によるセックスの不均衡の話に移った。

男性のペニスに対応するのは女性のクリトリスで、どちらも摩擦よって快楽を得る。一方膣はそんなに快楽を得られる場所ではない。それなのにセックスのときに使うのはペニスと膣。だから女性は特に最初のうちは痛いだけなのに、男性は初めから快楽を得られる。
男女の身体の性差による不均衡がありとても理不尽。
これは身体差によるものなので、ジェンダー、社会や文化による男女の違いが解消されたとしてもなくなる問題ではない。

男性は相手が痛い思いをすると分かっいてセックスする、そこには暴力性のようなものがあるが、セックスが暴力的なものだとは認めたくない、愛する男女がお互いに気持ちよくなってセックスしたいという人類の切実な欲求が、女性にセックスは気持ちのいいものだと思わせるテクニックや文化を作り出し、 それと共に男性の勃起力を高めるポルノも発展してきた。
もし、男女の身体的性差によるセックスの不均衡がなく、同じように快感と痛みが配分されていたら、もっと違う文化が生まれていたかも、というのが大野氏の仮説だ。

私自身は膣でもそれなりに快感を感じられ、初体験のときからそんなに痛みはなかったのだが、男女の体力における不均衡さを感じることがある。
「疲れマラ」という言葉があるように男性はどんなに疲れていても、疲れているときこそ、セックスしたくなり、セックスしているときには体力を使うがその後、爆睡し、いい眠りにつけるからか、次の日にはすっきり体力ややる気がみなぎることが多いようだ。それに対し、女性は疲れているときにはとてもセックスしたい気持ちにはなれないし、次の日にも疲れが残るので、疲れているときにはしたくなくなる。
産後の妻がセックスを拒否するのはこれが理由だと思う。

この違いがあるのは、大野氏が言うように、女性のオーガニズムは自己破壊的な快楽で、苦痛を伴う非常に強烈な体験、享楽であるのに対し、男性のオーガニズムは女性を欲望し、侵入するときに感じる受動的な快楽だからなのかもしれない。

さらに女性は好きな人と一緒に楽しく過ごせれば、必ずしもセックスしなくてもいいが、男性はせっかく一緒にいるのにセックスできないのは残念だと思う人が多い。
私には付き合って3年あまりにいる恋人がいて、最初は彼の休みに合わせて週に2回会って、セックスしていたが、50を過ぎ体力の衰えを感じるようになって、それがしんどくなってきた。このままでは自分の生活(あるいは彼とのお付き合い)にも支障が出ると、セックスするのは週に1度にしたい、もう1日は食事や映画や美術館に行くだけのデートにしたいと提案した。彼にとっては「セックスなしのデート」にはかなり抵抗があるようで、私の愛の減少を疑われたりもしたが、特別出掛ける用事がないときには、週に1度セックス付きのデート(デパ地下でお弁当を買ってフリータイム5時間のラブホテルで過ごす)をすることになった。

自分で言うのもなんだが、彼のほうが先に私を好きになって始まった交際なので、私の希望が受け入れられたが、もし、女性のほうがより好きな交際なら、我慢して彼の望むセックスを受け入れてしまう女性も多いだろう。


ところで、男女の不均衡はの理由は(完全に信じてるわけではないが)旧約聖書に書かれているように、エバのほうが先に禁断の果実を食べてるアダムにも勧めたために、エバのほうがより重い罰を受けたからなのかもしれない。

(それならイエスの無謬の死によって自身が贖われたと信じる女性たちはセックスの苦しみからも逃れられているはずなのだが)

本来痛いセックスを快楽に持っていくためにセックスは気持ちいいものだとい思い込みが必要で、そのためのテクニックや文化が作られたが、それを言うと男性から反発がある。
また、男性の勃起のためのポルノも生産されてきたという話は、特に男性側の状況に、本当にその通りと膝を打った。

私は風俗で働いた経験があるが、風俗で働くということは、金銭を得るために仕事で性的な行為を行うわけで、だから相手に対して特別な感情を持つことはなく、単に相手が客だから性的行為をしているにすぎない。他の仕事だと、それが好きだからその仕事を選んだ人もいるが、性風俗の場合はほとんどいない。
客のほとんどは、容姿や体型などが自分の好みだとうれしいが「規格外」の女性でなければ誰でもいいと思っているのに、女性には自分のことを好きだったり、性的な行為が好きでやってると思い込みたがる。
金銭を介しての関係なんだし、不都合なことは見ないふりをして物質としての女体を自由にできることを楽しめばいいのに、なぜか「心」まで求める。
カウンターで料理を楽しむときや、宅配便を受けとるとき、目の前にいる労働者が自分に行為を持っているかどうか、この仕事が本当に好きでやってるのか気にすることはないのに、「性的な行為を行うのは好きな人とだけ」という前提に客のほうがこだわっているのか。
男を勃起させるためのコンテンツの多くは、好きな女性とのセックスを楽しむためのものではなく、性的なコンテンツやそれが宣伝する商品を購入させたいがためのものばかりなのに、皮肉なことである。

一方、女性にセックスが気持ちいいと思わせる文化は、男性ほど必要とされてなかった。なぜなら、女性にとってセックスは自分がしたいからするものではなく、何かの利益を得るために行わざるを得ないことのほうがずっと多かったから。
女性にとってセックスは結婚したら相手とだけ行うもので、「婚前交渉」に目くじら立てられなくなったのはここ3、40年ぐらいのこと。端境期にはまだ結婚はしてないけど、必ず結婚してくれる、つまり責任を取ってくれそうな人とならしてもいいんじゃない?という風潮があった。
その判断基準になるのは、身体目当てではなく、ちゃんと自分のことを愛してくれているか。この場合の「愛」はロマンチックなものより、結婚し、一生涯養ってくれる気があるのかを図る非常にシビアなものだった。
「身体を許すかどうか」も自分がセックスしたいからより、それを求める相手の気分を害さず、良好な関係を続けるための必要性を感じてのほうが多かった。
女性の性欲を喚起させるものは、女性自身のためより、女性を興奮させたい男性のために作られたものが多く、女性が本当に気持ちよくなれるものより、男性の妄想を元に作られたが、女性からしたらポイントはずれのものがほとんど。
おしゃれなセルフプレジャーグッズが百貨店で売られたり、性に関するネット記事を見掛けることもあるが、真摯に女性の悩むに寄り添うより、以前より経済力をつけた女性を新たな購買層と捉えただけのように思える。
男性向けエロ産業が、現実のセックスをより豊かにしてもらうためのものではなく、さらにエロコンテンツにお金を使ってもらうために過激になっていったように、女性向けエロコンテンツも実際のセックスとは程遠い独りよがりな妄想を駆り立てるものになっていきそうで危惧している。

休憩を挟んだ後半は無差別殺傷犯の話をしたが、父親の存在が薄く、甘えを立ちきり、社会に押しだす役割を果たす父親の役割を母親が担っていたパターンが多いそうだ。

夫婦関係がよくなく、母親が性的にも愛情的な面でも満たされていないという指摘があったが、夫婦のあり方は分からなくても、育児に父親が積極的に関わっていないとしたら、家族や妻を軽んじていたことに他ならず、そんな夫との関係に満足するはずがないと自身の体験からも思う。

無差別殺傷は本来母のものである享楽を息子が自分で肩代わりしているのではという大野氏の指摘は真に迫るものがある。
こんなことを言うと不倫を正当化してると非難されるかもしれないが、夫からは得られない喜びを交際相手から得ていることで、息子に対して過度な期待を掛けずにすんでいると自負している。

子供が自分とは別の人格をもった人間であることを認めるためには、まず自分が子供や夫に付随するものでは、1人の人間であることを認め、自分がなすべきものは何かを考えなくてはならない。

その足掛かりとなりそうな話を最後にいただいた。

大野氏によると今はジャンルという垣根がなくなったので、別の分け方を考えた。それが「4つの作る」だ。

物を作る
物質、絵、料理

物語を作る
マンガ、アニメ

場を作る

関係性を作る
人と人を結びつける媒介

自分がやりたいもの、できそうなものははどれに当たるのかを考えるのは、自分は何を与えられるかを見いだすことだ。

もう若くなく、体力の衰えを感じるときを迎え、残された次官で何かを成すことができるのかと考え直している。






















femmefatalite at 03:42|PermalinkComments(0)映画鑑賞・読書 

2021年10月30日

『コロナ貧困』とすでに絶望的格差社会になってる性風俗産業

クラウドファンディングの特典としていただいた藤田孝典著「コロナ貧困 絶望的格差社会の襲来」を読んだ。

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コロナによって経済的ダメージを受けたり、それ以前からカツカツの生活を送ってきた人がコロナによってとどめを刺される形で貧困に陥った人が公的な支援を受ける難しさをソーシャルワーカーの立場から描いている。

現代日本において、生活に困窮した女性の「自助」対策のひとつとして、性売買が有効な手段のように思われている。

第3章で取り上げられた「通常なら風俗で働かないような女性が風俗で働く」という発言はまさにそんな構造を表している。

しかし、彼が語るように「3ヶ月で目標額を稼いで辞める」ことはまずなく、新人風俗嬢が3ヶ月後に姿を消すのは、風俗を辞めたからではなく、思うように稼げず別の店に移動した可能性が高い。

あの発言は「不況になれば風俗嬢が増える」という表面的な現象は語っているが、風俗業界の内側にある悲惨な現状は全く見えてないない。

それは筆者にとっても同じで、買う男性と売る女性だけでなく、エロ心を抱く男性とお金の欲しい女性を利用して稼ごうとする風俗店経営者や広告代理店、仕事を得たい女性の向上心や承認欲に目を付けた、風俗講師、撮影スタジオなど、直接性売買には関わらないが、性売買を「金儲けのタネ」にしようとする勢力の増大さとえげつなさは、実際に「売る側」として風俗業界に足を踏み入れてしまったものでしか分からないだろう。

その点ではいちタレントの発言を軸にした構成に不満が残るが、風俗という業界の排他性を考えればしかたがないことだろう。

風俗業界はサブタイトルにあるような「絶望的格差社会」にすでになっている業界であり、筆者が繰り返し批難する、権力を持った側が労働者の権利を矮小化し、働かざるものが働いた人が得るべき利益を不当に奪うシステムも全く同じなので、そういった視点をもっと盛り込んでほしかった。

ところで、私自身や知人、知り合いには比較的裕福な人が多く、コロナで商売に支障が出たり、給与、特に賞与が減った人もいるが、帰省や旅行などお金を使う機会も減り、生活に困るより楽しみが失われたことを嘆く声のほうをよく聞いている。

子供の将来には心配な面もあるが、自分の老後は何とかなるだろうと楽観的な人がほとんどである。

金銭的に恵まれている人たちが、その富を手にするためにまったく努力してない訳ではないが、恵まれない人たちより生まれながらに得ていたものが大きいことは、自身や自身が接してきた人たちと、この本で描かれている人たちの人生を比べてみれば明らかである。

しかも、非正規雇用の増加を推進、「公助より共助、自助」を求める政策によって、恵まれた人と恵まれない人の格差は広がっている。

そういった日本の状況を踏まえ、困窮者に寄りそう現場からの提言は多くの気付きを与えてくれる。

「恵まれた側」からできるものはないのか、考えさせられる一冊であった。








femmefatalite at 07:59|PermalinkComments(0)映画鑑賞・読書 | 風俗論

2021年08月04日

『私がフェミニズムを知らなかった頃』を読んで「がんばれること」や「平等」について考えた

姫野桂さんとのイベントで小林エリコさんという方を知り、『私がフェミニズムを知らなかった頃』を購入した。

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イベントでは明るく楽しそうな人だったし、幼い頃の家庭環境は悲惨でも、フェミニズムを知ることに立ち直っていく話なのかと思っていたが、大人になってからも、出会う男、出会う男すべて、筆者を「簡単ちヤれる相手」としか見ていないようなひどい男で、読むのが辛くなってきた。

しかし、でも途中でやめたら読後感悪すぎる、明るい人生を取り戻すところまで読まなければと言う気持ちでなんとか読み終えた。

これまでの男性とは違い、筆者を心から愛する人に出会え結婚し、しあわせな家庭を築く……なんて、私が望んでいたような展開はなかったが、フェミニズムに出会い、男性に頼ることなく、自分の得意なこと、やれることで生きていこうとする姿勢には一縷の望みが感じられた。

筆者の転機のひとつに、生活保護を受けながらNPO法人でボランティアで編集の仕事をしてことだ。

その仕事がうまくいき、非常勤雇用で採用され、充分な収入を得られるようになって、生活保護を解消する。

生活保護を受けながら、自分のしたい仕事、できそうな私語とをして、収入に応じて生活保護費を減らしていき、充分な収入を得られるようになったら生活保護を解消するというシステム、生活に困窮する人だけでなく、実家が豊かで充分な支援を受けられる人以外は、ここからスタートすればいいのではと思った。

こんなことを言うと、誰も働かなくなると言う人がいるが、働かずに生きていけても、何かやりがいのある仕事をしたい、何か世の中に役に立ちたいと思う人のほうが多いと思うし、楽をしたい人を無理に働かせることもないと思ってしまう。

そもそも家賃など、普通の生活を送るのにもお金が掛かる今、生活保護ではなくベーシックインカムのようなものになるかもしれないが、何らかの支援が必要なのではと感じる。


「私が望むのは、ハンディキャップを負ったものが、働かなくても心やすらかに生活できる社会だ」

「私は弱いものが弱いまま尊重される社会を目指している」

筆者の言葉には心から同意する。

働かなくても大学に通わせてもらえるだけの親からの支援があったこと、他の人が「がんばって」ようやくできることを難なくこなせる力があること、それは当たり前のことではなく、ものすごく恵まれた環境にあるのだ。

がんばれる人はがんばれる恵まれた環境にあることを感謝し、がんばれない人のために社会に還元することが真の平等な社会でなないのかと最近、考えている。





femmefatalite at 07:46|PermalinkComments(0)映画鑑賞・読書